曾祖父 木村弦雄 傳( 関連資料 熊本県玉名市立歴史博物館こころピア に寄託 )

熊本県教育委員会編  「昭和51年度顕彰 熊本県近代文化功労者 業績集」  より抜粋
業績集の 木村弦雄 傳(3〜18頁)の筆者は 高野和人
 業績集3頁〜6頁前半 略
 弦雄 は天保9年(1838)6月11日, 玉名郡高瀬町に生まれた. 木葉山の連峰を遠望し, 眼下には悠然と流れる菊池川と, 高瀬の町並みを見下ろす山麓の, 肥後国玉名郡小田手永立山村字亀迫の郷村にかれの生家がある. 父は肥後藩御留守居組・二百石の 木村才記驫イ, 母は . 木村家は寛永以来二百年, 苗字帯刀をゆるされた郷士であったが, 『肥後藩侍帳』 によれば, 宝暦年間に昇格して藩の寸志知行取の列に加わっているようである. 普通の郷士はいわゆる寸志御家人であるが, 寸志知行取はれっきとした藩士であって, 直接支配はしないが藩主から知行地をあたえられるところの特別の在地家臣である. その待遇をうけるについては相当莫大な金子を藩に上納し, かつ家系も由緒がなければならない.
 木村家の先祖は 「大阪夏の陣」 で有名な 木村長門守重成 の一党であろうと家伝にある. 木村家は中世以来繁栄した高瀬港を背景に, 高瀬町で商業を営み, かたわら山林も有する大地主ではなかったかとおもわれる. 弦雄 の先々代にあたる甚次義方やその前の義敬などは, 勤倹を旨として伝統の家業にいそしみ, 土地の富豪になっても礼節を重んじて驕奢のふるまいがなく, 学問については文学・儒学を時習館の 草野草雲 や, 森省斎池辺蘭陵 らについて学び, 町別当などもつとめて交際がひろく, 郷党の尊敬をうけていたといわれる. 弦雄 の父 才記 は別号 驫イ, また竹蔭居士と称して先代におとらぬ篤学の士であった. 寸志知行取で御留守居組というのは, いわば藩の非戦闘員であって, 別に役職はなく自由である.したがって 弦雄 は郷国でみっちり勉学修行にはげんでいる.
 7頁後半〜8頁前半 略
 
 明治17年正月, おなじく玉名の生家にあてて, 弦雄 が宮内省・学習院に出仕したことを知らせた・・・・・中略・・・.
 つい先年までは, その主義と思想のゆえに政府から無実の罪に問われ, 恨みをのんで獄舎にあった 弦雄 が, 今日一転して学者として廟堂に列し天皇に拝謁する. しかも文面では侍講 元田永孚 のあとをうけて, 来年には天皇に進講するという学者として最上の栄誉に浴する身の上になった. ひとの一生に, 一度は開花期がくるとすれば, かれにとってはまさにこのときであったかもしれない. 政府の情勢が変わってきたのである. 弦雄 はさる明治13年出獄帰郷したのち, 療養のいとまもなくその翌月には, ときの県令 富岡敬明 に請われて, 熊本中学校長・同師範学校長の教職にむかえられていたのであった. おりから中央では, 当時熊本出身の 元田永孚 が侍講, 井上毅 が図書頭の要職にあり, それぞれ明治国家主義の精神的思想的構築をすすめていたので, かれらの招請で宮内省に出仕することになった. それに当時の学習院長 谷干城 の推免もあった. 明治16年, 弦雄 47歳の時である.
 8頁後半〜10頁1行 略
 さて, ここで 弦雄 がこのたびの上京以来, かたときも念頭から離れなかったのは, 若くして世を去ったかれの義兄肥後藩士 木村鉄太 のことである. 鉄太弦雄 にとって, もっとも忘れることのできない存在であった. 世の中がどうなるかわからない幕末のあの時期に, 夷情探索にその命をかけた, いまはなき 鉄太 の草奔の遺志を 弦雄 がひきついでいるのである. 明治17年3月20日, 宮内省から玉名の生家にあてた 弦雄 の書簡で, かれが母の , 妻の 田鶴 と同道して, 品川の東海寺にある 鉄太 の墓に詣でたことがしるされている.
・・・・中略・・・・それよりさかのぼることおよそ20余年前のことである. 弦雄 より先にかれの生家木村家を継いでいた 鉄太 は, 万延元年(1860)幕府遣米使節にみずから希望して, 幕府監察 小栗豊後守(忠順のちに上野介) の従者・通弁役として使節団に随行, 肥後人としては最初の世界一周をなしとげた. ・・・・中略・・・・・幕臣と全国各藩の藩士あわせて77名の大外交使節団に加わり, 米国軍艦ポーハタン号に搭乗, ハワイ・アメリカ各地・アフリカ・ジャワ・香港と十ヶ月にわたる地球一周でおおいに見聞をひろめ, 帰朝後に 『航米記』 全6巻にまとめて肥後藩主に献上した. しかし, 鉄太 は長途の大旅行と船中の無理がたたったのか, その師 手塚律蔵 の塾で病臥し, つぎの幕府遣欧使節に随行の希望をいだきながら, 翌々年の文久2年2月, 33歳の若さでなくなった.
 11頁後半〜15頁前半 略
 ところで, 学習院退職後のかれは, 熱海・別府などに転地療養, もっぱら静養の日々を過ごしていたが, それも3年とはつづかず, また周囲の人々から懇請されて教職に迎えられた. 明治22年2月, 第二代済々黌々長であった 佐々友房 が, 翌23年開設される帝国議会の議員として出馬するため, 弦雄 が第三代の黌長におされてひきうけたのである.・・・・中略・・・・ 波乱に富んだかれの一生は, 明治30年9月19日, 熊本市新屋敷町の自宅で故旧や門下の人々にみもられながら, 60歳でその幕を閉じた.
 16頁後半〜18頁前半 略
 明治22・3年ごろ, 先に作歌した 「国船」 が, 明治天皇の前で薩摩琵琶の名手によって弾奏され, 感賞にあずかった. 御歌所の 高崎正風 から 井上毅 を通じて 弦雄 に知らされ, かれは感激のあまり 「国船」 にちなんで, それ以来 「邦舟(ほうしゅう)」 と号した.・・・・中略・・・・ 弦雄 の法名は 邃玄院文靖邦舟居士. 碑文は 狩野直喜 博士が書いた. 墓ははじめ熊本市大江町是法にあったが, いまは立田山の小峯墓地にある(碑文:邦舟木邨先生墓).
 

追記1:遺稿に1876年(明治9年)神風連の乱の主領かっての同志 太田黒伴雄 らの真意を世に訴えて世人の誤解を正した 「血史」 がある. 1896年(明治29年)12月27日に第1版が発行されています(発行所:熊本市教育會,1907年(明治40年)8月5日 第2版, 1943年(昭和18年)11月10日 第3版発行). 第1版は, 国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能です.第1版は, 漢字とカタカナで書かれています. 手許にある第3版(後日、玉名市立歴史博物館こころピア に寄託)は, 現代と同じ漢字とひらがなで書かれており, 附録に嫡子の木村亥熊(号:鴎舟)の筆なる 「邦舟木村弦雄傳」 が転載・追加されています. 上記の高野和人氏による 「木村弦雄傳」 は, これを基に解説されたと思われます. また, 「神風連の乱」 百年を記念して1976年(昭和51年)10月24日に神風連百年祭記念出版 「神風連・血史」 (後日、 玉名市立歴史博物館こころピアに寄託)が発行されています(発行所:大東塾出版部).

追記2:2016年(平成28年)4月に発生した熊本地震で, 小峯墓地の墓が倒壊しました. 周辺の墓の約8割が倒壊しており, 再建に時間を要しましたが2018年(平成30年)3月に, 上写真のように再建できました.

追記3:曾祖父の木村弦雄に関連する保存資料の歴史的価値を明らかにしたいと、木村弦雄の生誕地であり、義兄の木村鉄太を紹介している 玉名市立歴史博物館こころピア に資料を持参しました.資料を解読された同館の村上晶子氏から、2019年(令和元年)12月に歴史的価値について連絡をいただきました.
 そこで、2020年(令和2年)3月に再度同館を訪問し、資料寄託が最善である旨の意見をいただきました.4月に資料寄託申込書(寄託者:木村 晋)を送付しました.寄託資料

追記4:義兄・鉄太の著書 『航米記』 全6巻の 復刻版 の最後に記載されている松本雅明氏による 解題 中に 系譜図 が掲載されています。これを基に、 家系図を作成しました. なお、復刻版は、 『肥後国史料 第2巻』 として、昭和49年に熊本市の青潮社から 『航米記』 第2版が、発行されました.

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