〜私のふるさと(1998年度/社内報より)

♪ふるさとは何処ですかと わたしは聞いた 南の海の町とあなたは答えた
    あゝそして幼い日の事を 瞳を輝かせ歌うように夢のように    話したわ 
    二人して行かないかと 私には聞こえたの ♪

これはテレサ・テンの歌だが私の故郷、久留米市瀬下町では夏の風物詩で もある筑後川
花火大会があり、地元の若い男女の間ではこの歌に近い語ら いがあって「花火でデイト」が
定番である。 私の青春を振り返ると、それ以前に終わるケースが多く、結果は今の女房殿
である。(^=^; やや本題からそれた感もあるが故郷を語るには筑後川を抜いては語れない。
まず我が家から筑後川は目と鼻の先であり、物心ついた時から人生を共に している。 昭和
28年の大洪水時はまだ三歳半だったが祖父に背負われて避難した事を記憶 している。昭
和30年代の初め頃までは町内の主婦達は連れ立って川へ洗濯に行 っていたが半ば頃には
上下水道と洗濯機の普及で次第に減っていった。

私が泳ぎを覚え、川釣りを始めたのはこの頃である。ハヤ、手長エビ、ウナギ、サヨリとバラエティに富んだ釣果があった。父の仕掛けにフグがかかった事もあり、弟の夏休みの絵日記の題材となった。今の私の趣味の一つであるアユ釣りは、このころの夢を実現しているものである。
さて、現在の筑後川は護岸工事に加え筑後大堰の影響で魚種が減った上に外来種のブラックバスやブルーギルが繁殖し、子供達はルアー釣りばかりである。また土手のススキはセイタカアワダチソウと仲良く共存している。
30年代後半になると河川敷に出来たゴルフ場でキャディのバイトに精を出したが、フェアウエーの中にヒバリの巣がある、のどかなコースだった。
日本一安いゴルフ場と評判で遠くは北九州からもやって来ていたようだ。
一般サラリーマンがゴルフを始めたのもこの時期である。
40年代の後半には我が社のビギナー達も来ていたが、年収と腕が上がるにつれ、目もくれなくなった。
ところで久留米市瀬下町の歴史をひもとけば、遠くは江戸時代(約350年前)に久留米蕃の川港として開かれ、後には天領日田の年貢米を船で瀬下まで運び、ここから有明海沿いの若津村から来る船に荷を積み替えて川を下り、若津からは帆船で長崎へ運ぶメインルートの中継地点として栄え、近隣の村々をも潤す景気の良さだったという。
長崎からは山口、瀬戸内海を通り関西の諸都市とも結びついていた。
瀬下からの積み荷には筑後地方の特産品であるハゼ蝋や藍等もあり後には付加価値をつけた久留米絣へと発展する。
船が着く日や川港の傍に位置する水天宮の春の大祭や花火大会は、近隣からの馬車や小舟でやって来る人々で大賑わいだったそうだ。
(JR久留米駅には昭和30年代の後半、東京オリンピック頃まで石炭を運ぶ荷馬車が来ていた)

冒頭に紹介した花火大会は当時の水天宮の社殿の落成祝賀の奉納花火として行われたのが始まりで、戦時中に中断した期間があったが、平成10年は339回目で45万人の人出だったとか。
(新築した三階建ての我が家は特別観覧席であり、「我が家から花火を」も子供のころからの夢であった)

この様な歴史があって、地元では生粋の”久留米んもん”とは久留米藩の城下町に生れ育った者という意識があり、松田聖子などは後に久留米に合併した町の出で言わば外様である。
私の履歴書風に綴って来たが、振り返れば戦後の復興期から高度成長期を経て現在まで、実に半世紀を筑後川と共に生きて来たわけだ。
気持ちだけは万年青年のつもりだが、時代の移り変わりを我が子供達に語り継ぐ年になっている。
残りの半生も軸足を筑後川に置き、人生を充実させて行きたい。

我が家
       
最後に私の祖先は久留米と日田を往復する商人で日田の旅館の娘を娶ったそうで、以来私の妻に至るまで
我が家の嫁は四代にわたり、筑後川沿いの地から嫁いで来ている。
妻との出会いは南の島だった。何処から来たのと聞いたら福岡の田主丸ですと答えた。
話が振り出しに戻りましたところで、お後がよろしいようで。

             
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〜好きなベスト3〜

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  にいない 
2.YaYa  あの時を忘れない
3.恋人も濡れる街角