電動ラジオコントロールカーと共に・・・・・

写真主の秘密基地OGTの作品館新会議室

 

そろそろ年齢の事は触れない事にします・・・・・現在の本業は、サラリーマンなのですが模型屋業の方が経歴は長いので本音は、ずっと店長をしていたいのですが・・・・・楽しみは退職後に取っておきます。

 

電動ラジコンカーと言えば、タミヤの1/12ポルシェ934ですよね!ですが当時から私はアンチ主流派を実行してきたものなので記念すべき ラジコンカーデビューは、オオタキと言うメーカーの1/12 ムスタング マッハ1でした。シャーシ構成は田宮製と、ほぼ同じ感じです。

というのも、当時は、タミヤ製934,935等は、入荷数が非常に少なく私が使えるのはあまり売れない物・・・・・と相場が決まっておりました。

タイレル6輪車と言う手もありましたが、当時はフォーミュラーカーには、まったく興味はございませんでしたし、私的にはカッコが良いとは思えないものでした。

 

田宮は当時からオプション展開をやっておりまして、改造(バージョンアップ)が、かなり羨ましかったです。オオタキ社の補修部品入荷はかなり悪くすでに、この頃からグラインダーとボールバン、ハンドドリルが、欠かせないラジコン生活になっていました。

当時の私の愛読書(雑誌)は、「AUTOSPORTS」と「ホリデーオート」で、実車レース界は憧れでしたのでラジコンでのレース活動は、お約束のように始まります。

 

〜〜〜デビューレースは、地元の特設会場(当時は特設しかないです)インドアプール跡地です。

かなり大きな施設で現谷田部アリーナよりも大きなものでした。コースは其処の50メートルプール内に当時は、おなじみの木枠でのフェンスでコースが作られていきます。私の親も模型屋経営していたので、当然主催側で当時珍しいビデオカメラを持ち込んでレース風景を激撮?したりしていました。

見たい方も居られる筈ですね、私も見てみたいのですが当時のVTRテープが何処に有るのか親父も解らないし、再生できるデッキも壊れています・・・・

ここを見られてある専門業者が居られましたらご一報ください。(AKAI製です)

結果は5位、初参加にしては、上出来でしょう?おかげでそれからのラジコンカーレースに、はまりっぱなし人生の始まりとなりました。

 

エンジンカーも、もちろんやりましたよ!始めは、「トドロキ」と言うメーカーの「ROAD ACE」1/8モデルでした。

やっぱり一度は憧れますよね、あのサイズと「もうどうにかして!!」と言いたくなる様な暴力的な加速スピード・・・・・・

当時の電動(以下EP)レースの遠征先で福岡のオフ・ショ−アと言う風変わりなラジコンカー専門店が、ありました。

店舗屋上部分に一周80メートルくらいの簡単なオメガタイプレイアウトのサーキットを設けてあります。

外周コーナーには特殊塗装のグリップする部分、コース中央部分にはコンクリート地のままのグリップしない所など在りユニークな電動専門のコースも所有されておられました。

そこのオーナーは、トークがおしゃれで湘南を感じさせる人です。奥さんは美人で可愛くて芸能人のようです。

オーナーの愛車は当時珍しくリフトアップしたハイラックスです。

ボディサイドには、サーフィン・椰子の木が描かれています。そんなトラックを乗り回しカッコイイな・・・

と当時18歳の私を魅了させるキャラクターの店主が存在しておりました。

 

 その方は、山崎さんと言う人で最近では、雑誌「Daytona」「ライトニング」「RC WORLD」の編集長をされていた方です。

さて、エンジンカーでしたね・・・・もうそれは大変でした、当時高校生だったのでマイカーなどありません。友人らと電車、タクシーを使いのレース参戦です。

その当時は、ハチイチクラスはすごいお金持ちの世界だったのです・・・・サーキット駐車場はドイツ車やアメリカンスポーツカーの世界です。国産車の方なんて一握りしかいません(もちろん実車の事です)私らがピット片隅でエンヤ19TVBBをパラッパパパッ・・・・と始動を始めますと隣でK&Bマッコイチューンとか、HGK21何とかチューンとか雑誌でも見る事が出来ないような高価なエンジン達がカリカリに絞られて国産を圧倒するような高周波を奏でていました。  

   

 当時の参加費用も燃料(K&B1000)、タイヤ、エントリーフィもろもろで最低2万円は必要でした・・・・・学生には、きついですよね!

その後ロードエースインターナショナル・80・京商ファントム20&ファントム4WD(チェーン駆動)と続きましたがそのあたりで、エンジンカーへの熱い情熱は燃え尽きました。・・・・なぜなのでしょうか?その答えは・・・・もちろんあれです、青年期の麻疹とでも言いましょう。

 

 さて、EPレーシングの世界です。

思い出深いのは、私が16歳の頃TBSテレビ番組内の「日曜特バン第一回電動ラジコンカー全国大会」なるものが田宮模型を中心とした静岡模型組合連合で企画されまして、九州地区予選に出場した所、4名の出場参加権の中に当然のように3番手通過している私が居ました・・・・出場(出演?)際に、経費?使い放題のVIP待遇でした。

久留米から福岡空港までの交通費、そして羽田までの航空券、赤坂6本木TBSテレビGスタジオまでの電車賃すべての費用が主催者持ちの御招待状態です。 

  もちろん、ホテルは、赤坂プリンスホテル、食事はスタジオでの豪華な幕の内弁当。

もうこんな全日本は二度と無いでしょう・・・・・

でっかいスタジオ横の道には2トントラックに無造作に積まれた番組展示用のタイレル6輪車(現在タイレルP34は、田宮本社、展示室の中)が

かなり適当に置かれている状態です。

前日このGスタジオでは「ベストテン」という当時はやった歌番組の生放送も有った模様です。

出入り口の警備員の目線の先には芸能人を出てくるのを待つ一般の誰かのファンの方も居られます・・・・さすがテレビ局です。

 

レースの方ですが全日本選手権大会ですので当前車検があります。 

車検担当者は、当時ラジコンカーキットを生産している各プラモデルメーカーの人達が担当です。

当時、ヨコモや京商などの会社も存在しておりましたけどEPラジコンカーは、まだプラスチックモデルの延長線上だったのです。

Bスタジオで車検風景の撮影取りが行われました。

参加選手は贅沢な事に各メーカーの補修パーツは使い放題!!もうまさにDREAM、天国万歳。

司会は、「愛川欣也」さん、「松岡きっこ」さん。

ゲストは、「早乙女愛」さん(なつかしい)、「ザ・デストロイヤー」氏(そんなレスラーもいたね)、「故大屋政子」さん、「ビル大友」氏(当時AUTOSPORTS写真家)といった、いったいあんた達なんの関係があるの?といった方々でした。

でも、スクールメイツには、かわいい人もいましたよ!!(足は太めに見えた)そういやサブ司会で「青空キュウジ・コウジ」(漫才師)も居ました。

 

前振り、ながくなってしまいましたが、やはり当時から中京の方々は目茶目茶速くてみなさん、かなりレース馴れしているようでした。

そのなかでも中京のteam KIWI の人達が自作のトランスポーター(車も収納できる工具箱)などをビシッと決めてあって都市部の遠征慣れしているようです。

私達の田宮RCバックのみの姿が、かなり田舎者みたいです・・・・

予選が進む中、私は、車のチョイスを誤ったのが発覚・・・タミヤ1/10フェラーリ312T3ノーマル(ヘビー級)では、タイムが出ません。

「ひよこ」サーキットの方々は、ボディを完全自作したフェラーリ312T4(すごくきれい)で、メインシャーシ軽量化も綺麗に芸術的にされており、会場では参加選手皆の羨望の的です。

その車体が、きちんと決勝5名の中に3人残ってしまうあたり本当にすごい事です。

 

ところが、どっこいその中に九州地区代表で久留米の諸永と言う私の古くからの友人が、5番手で残ってしまったのでした!!!

この、「諸永君」通称モロちゃんなる人物を簡単に説明します、中村模型店がまだ、中村玩具店だった頃(昭和52年)当時、プラモデル1/24スケールカーで当店オリジナルのスピード競技を開催していた時の話です。

毎レース開催時に常に上位入賞し賞品を毎回ごっそりGETしていた奴でした。

彼の主な収入源は、新聞配達でしたがプラモデルレースの優勝賞品(もちろんプラモデル)などを上手く捌いて今で言うところのセミプロ?化している奴でした。

それらは後のRCの世界にはまっていったのは当然と言った感じでしょうか?

彼もRCの世界でも、持ち前の向上心と負けず嫌いで、あっという間にガキンチョ?RCレースの世界・それも福岡管内を制覇して行き、近辺にはライバルが、見当たらなくなってしまいました。

それからは自費で広島、岡山、関西とラジコンレースを開催している場所をRCマガジン・RC技術等で探し出して武者修行をするようになったのでした。

その当時の面白い話の一つで大阪のボークスと言うショップ主催のラジコン大会で8歳の女の子に負けた・・・・

それも自作シャーシで巨大なリアウイング(ボークスウイング)を付けた変な車に・・・・と落胆して帰ってきたのを今でも覚えてます。

私も「いやぁ〜世の中広いね?女の子で速いの居るのだね〜」と言ったのですが、それは当時関西で大活躍の広坂正美君の事と判ったのは、ずいぶん経って広坂選手自身に聞いて確認したのでした。

 

私とモロちゃんは、かれこれ20数年来の親友???と言った感じでした・・・・。

 

話をTBSラジコン全日本に戻します。

彼の選択したマシンはタミヤ製1/12セリカGr5シャーシでボディはフジミ製のポリカーボネイト製セリカGr5(何人知っているかな?)です。

軽量コンパクトなパッケージはなかなかの物です、さすがに今考えてもかなり当時としては良い選択と思えます。(レギュレーションでは、プラモデルメーカー製のものであればokでした)充電は12v鉛バッテリーを持ち込みで(それも久留米からまさかの空輸)当時使用チャージャーは京商のタイマーが付いた急速(よく燃えたヤツ?)です。

九州勢は、私も含めて4名で、トップ通過の細川君(当時16歳で実車カートの福岡地区チャンプ)、2番通過の石岡さん(当時歯科大生)、3番中村(当時17歳)、4番諸永君(当時15歳)でした。そのモロちゃんがノーコン(電波トラブル)と戦いながら2ラウンド目でタイムを出したのです。

レースの方は、やっぱりノーコン病と戦いながら善戦むなしく5位(5台決勝)・・・・しかしこの決勝に残った諸永も又、私と同じく勘違いRC人生の始まりだったのかもしれません。

 

 さて、伝統の?久留米RCサーキット編にはいります。

久留米にRCサーキットが出来たのは、やはり第一次電動RCブームの時でした。

場所は久留米市内の津福町と言う所です。

地主さん、マルエス模型、中村模型の三者の共同出資で出来たそれは偶然の産物のようなものでした・・・・

それまでのRC大会といえば、いろんなところの駐車場を間借りして開催されてありました。

レース運営はマルエス模型の店主「津田」さん、社員の「内野さん」(通称しんちゃん)で当時の大学生の方や高校生が皆で、お手伝いをするのが定石でした。

そう言う訳じゃないですが久留米で始めてのRC大会は久留米大学の医学部学園祭(あのくさい)で行われました。

私の初参加は前項に述べた第二回目の屋内プール跡地での大会です。

 

 

 あちらこちらの駐車場を転戦して、たどり着いたのが上記の初代久留米RCサーキットでした・・・

コースレイアウトは、当時の田宮サーキットをモデルにした小変更可能なもので、外周はオーバル・バックストレートタイプで左右の高速コーナーは若干のカントが付いてました。

外周は、約3mのコース幅・インコースは2m幅、1周120m位です。

外周のフェンスは廃タイヤを半分埋めて並べてありました。レース開催時のみジョイントでつないだ木のフェンスを使ってました。

簡単な管理用の建物も、併設されていましたが、RCショップ自体は、近くに無くて御向いの喫茶店に管理を任せていたようでした。

このサーキットの弱点は駐車スペースが4台分しかない事でした。

しかし当時のRCサーキットには小中高のお子様がメインだったので今のように車で訪れる人は、かなりの少数です。

入り口ゲートは鉄骨で組まれた丈夫&派手なものでした。

=====上記・残骸はK-Stadium北西側に残っています。この鉄骨は2代目サーキットには整備台として活躍しました=====

 

操縦台はその後10数年間、次の移動先のサーキット操縦台に使用できた位頑丈なものでした。

当時活躍していた方は上記の諸永君、その友人の楢原君、久留米工業大学のラジコン部数名そして久留米大学の数名、福岡歯科大ラジコン部の皆さん、そして今も現役の北島克展君(俗称サブロー)でした。

 

 しかし、このRCサーキットと言う代物も、当時では採算が取れる訳無く閉鎖されてしまう悲しい運命となってしまいます。・・・・・

やはり3者共同出資は、運営に無理があったのでしょか?それとも時代がまだ来てなかったのでしょうか?

私も、友人達もかなり残念がっていました。

 

・・・そうこうしていたら・・・

 

中村模型店の当時社長、つまり私の親父ですが「休耕田の場所を舗装するぜ!!」と、すごい事を言い始めました。

それまでは、ネットを張ってテニス&バレーを楽しんでいた(なんだか分け解んないですね)場所だったのです。

私は、最高にラジコンカーにのぼせていましたので、この朗報が大変嬉しかったのを覚えてます。

 その休耕田の場所は、皆さんご存知の現在地K-Stadiumが立ち上がっているところです。

 

さて、この久留米で2番目のRCサーキットは地面が山砂の上に簡易舗装と言ったものでした。

一面ベタ舗装(当時60万くらい)に白ペンキでラインを引きランオフ・エリア等はグリーンのペイントされた見た目に、美しいサーキットでした。

コースレイアウトは当時の1/8レーシングトップドライバー「石原 直樹」氏に諸永君が依頼しましたところ(カンド〜)、快く引受けて頂きました。

この時の図面は郵送で届き今でも手元にあります。

レイアウトはインコースを巧みにデザインされチャレンジしがいの有る素晴らしい物でした。

 

 この頃のEPレーシングカーのトレンドはaykこと青柳金属のRX1200〜RX3000、京商のプラズマ&EPファントム、無限精機はコスミック&テンペスト等がありましたね!現ヨコモ社員の吉村君は当時スクーター(ゲンチャリ)で熊本から毎月熱血参戦をされておりました。

彼はコスミックGPm愛用で鬼のような練習を毎回されまして彗星のように久留米のチャンプに成ります。

その吉村君と昔話をすると、松の木が植えてある高速コーナーが大変好き?だったそうです。

 

 この頃、久留米で活躍していましたのは、諸永、志賀、山口、吉村、蒲池、古市、名和、島田、松野と言う人達でした。

それからまもなく九州初の京商ル・マンカップなるものが開催されまして中西氏、西村氏(当時京商の営業)を交え非常に盛り上がりました・・・・。

 

4,5年くらいしましたら、アスファルト劣化が大変目立ってきました・・・アスファルトの2層目の工事をしたのは、この頃です。西側の高速コーナーは私の意見が聞き入られて松ノ木は全部撤去して頂き、おかげでストレート部分が4m位伸びて、かなり大きなハイスピードレイアウトが取れるようになりました。

しかしこの西側高速コーナーには社長の独断?で、外周部水田に向かってのジャンプ台になるようなバンク?がつけられてしまいました・・・。

このバンク部分が、以後サーキットに後々様々な話題を作っていくとは、当時誰も思いもよりませんでした・・・けど、ソレで良いのです。

 工事が終了した頃、今でもお馴染みの「KOグランプリ」が九州で始めて開催されました。

KOの営業の方と日興トレーディングの下屋氏(現OVA)が一目見て1/8が出来る広さですね!と言われましたが、この頃、福岡には、1/8専用で当時国内最大級の「Fukuoka International Speed Way」通称フィスコなるとんでもないRC/エンジンカー専用サーキットもありましたが、この話は、又別項目で・・・

 

 路面改修後、新装オープンした久留米RCサーキットでのメインは、やはり1/12でしたが、この頃にわかにEPバギーブームも訪れてきたのでした・・・・流行物には敏感な私らは当然のように駐車場になっていた場所(現在も)にバギーコースも作ってしまいます。第一回オフロード全日本選手権 九州地区予選はこのにわかバギーコース?で行われました。今風に言うとツインリンクサーキット?とでも言うのでしょうかネエ??

 

JMRCA第一回電動バギー全日本選手権も出場しましたョ。

地区予選で2WDクラス6位くらいだったと思います。この全日本選手権も生涯忘れる事はないでしょう・・・・・久留米から出発組みは高校生3人と当時大学生の浅川君、もう一人大人の方が参加予定でしたが仕事の都合がどうしてもつかず運転手2人とお子様3人計5人の旅となったのです。車は社長のタウンエース7人乗り、私は体調を崩して風邪を惹いています。まさに地獄の道中となりました。

PM6時くらいに出発しまして、翌朝6時くらいに静岡に着きます。ここで2人の運転手はギブアップ、「タミヤ模型でも見学するかな」と高速を一旦降りましてタミヤ模型の駐車場横で開門を待ちながら眠りました。

・・・・高校生に起こされます・・・・会社が始業しました。受付に「久留米の模型屋なのですが、工場見学は出来ますか?」と聞きますと受付嬢は、ご予約は?

と冷たく一言、さっき思い付いたのにある訳ないです、足早にロビーに置いてある思い出のタイレルP34を見て私ひとり感動して静岡を後にします。

厚木で一旦降りまして地道を湾岸線に向かいます。湾岸高速を渋滞に揉まれながら千葉に入りまして一路九十九里方面、茂原の双葉電子工業(FUTABA)

を目指しました。

 

当時、中村模型はオンロード政策?の失敗の為に(単に私がブームを読んでなかった・・・?)社長からの至上命令で商品仕入れ禁止令が出ていました。私は、在庫の商品で全日本は戦えるのではないかとタカを踏んでいたのですが、やはりそこは全日本選手権会場に着きますと予測されておりました当時の新製品(新兵器)・京商のマルチピンスパイクと金色に輝く?プレッシャーダンパーを会場のあちこちで非常に目にしました・・・・(私は当然持っていない・・・・)

 会場で眼に付きましたのは今回が初デビューのシュマッカーCAT・それからターボオプティマが大ブレイクの京商ワークス・そしてやはりヨコモのワンダードッグファイターとRC10でエントリーの広坂親子(Teamヨコモではなかった頃)でした。

この頃、こっそりファクトリーアイテムは内部抵抗が低いサンヨー1200SCRバッテリーです。当店にもそのバッテリーは在庫は有りましたが私の活動中心は1/12クラスで、ランタイム不足から使用していなくて、バギーでも、もっぱら1200SCを愛用していましたが、世の中はやっぱりSCRのマッチド(後日判った)だったのです・・・・!!

 

そう言えば、この時マイク・リィーディ氏もこの会場に世界初のオフロードレース?を視察に来ておりまして盛んに会場の風景を撮影されていました。

この時九州からエントリーされていました吉田選手(大学病院の先生)が、流暢な英語でリィーディ氏と会話されておりました。

ん〜〜む、もう少し英語勉強しとけばなぁ・・・・と思ったものでした。

 レースの方は予選が雨に祟れましてヒート順に恵まれた後半組みが天候の回復とともにタイムUPしていきます、私はステアリングサーボのトルクのなさが

災いしまして下位メインに予定通り沈みます(悲・・・・。

 

一方九州勢はほとんど玉砕!!中央との情報量がやっぱり違い過ぎます。「さあ、帰る準備するよ〜」と声を大きく発してますと、横の方で「中村さ〜ん、待ってョ!!俺が未だ最後の予選、在るとょ〜」と古賀 清(福岡)君がつぶやきます、それじゃ、さっそくお手伝い!と思いヒートを聞くともう間も無くでした・・・・「早よバッテリー乗せな!いかんやんか!!」「バッテリーは充電間に合わん〜〜〜!!」と古賀君、「げっ」私は、ばたばたと自分のピットへ走り充電済みのバッテリーを取り古賀君の車に載せると何とかスタートに、間に合います!そして期待もせずにピット側で見ておりますと、あれっ?あれ〜っ、かなり好走してしまいました!!

結果はなんとAメイン!!天才はここにも居たのです。・・・・・・・

=======やっぱり、物じゃなくて諦めないレースへの気持ちが天才を発揮させるのでしょうか?=======

その後の古賀 清君のご活躍はみなさんもご存知と思いますし、後続く河本選手のEPバギー時代の活躍もありますし、その流れは今も前田選手(福岡)にも続いていると思います。

 

この後、過激ですごい1/10EPバギーブームになっていた模様でした。

福岡にRCプラザ&フレンドRCが在りまして熊本VOXや久留米の皆で競うようにレベルを上げておりました。私も当然レース好きなのでハマリましたよ!

ところが、数年後ある日のレースでヨコモのマルチピンスパイク32Mを大量に準備する某有名選手を見ていて毎ラウンド分準備しないといけないらしくて、なんか違うんじゃないかな〜と思った瞬間、なんだか冷めていきまして・・・・1994年にロッシXXハイドロマチック車でのJMRCA九州地区予選レースが、私のEPバギー最後となります。(実は埃アレルギーもひどかった)

 

 

 

昭和62年頃に一度、中村模型がサーキット併設ショップとなりましたが、このショップのやる気の無さは天下一品?でした・・・昔の場所を追い出された形で移転してきたのですが当時メインで売れる商品が無く国道からずっと入り組んだ場所ですので飛び込みのお客様なんて有る訳ありません。

幸い人件費は高校生のバイトの江崎君と大学生のバイト浅川君の2人で回す事が出来まして辛うじて営業しておりました・・・幸い2度目のミニ四駆ブームが訪れてきて何処から聞き出してくるのかこのような僻地へ沢山の子供達が来てくれたのを思い出します。

余談ですが、珍しいお客様で当時久留米大学付属高校の自転車部に居ました高田君という方が居ました。彼はこだわりの1/12を楽しまれておりまして、部活の合間に良くラジコンをされてました。今彼は競輪の選手に見事合格してSクラスで頑張っておられます。彼の同郷で同期には有名なS1選手の吉岡選手がおられます。

その高田選手も今は地元で仲間と近くのラジコンサーキットで楽しまれているみたいです。

 

そしてこの頃1/10 EP OFF ROAD 1987年World Championに成ったばかりの広坂正美さんもTeamヨコモ(入社当時)として、久留米RCサーキットを訪れていただきました。その時は「1/12九州選手権」と言うイベントに特別参加して戴き、あっさりと?優勝されました。

実は、このレース、地元久留米の意地が当然の如く有りまして地元エキスパートの諸永選手を筆頭に山口選手・百崎選手らが打倒広阪正美選手にかなり燃えておりました!

この頃にはタミヤの1700SCEなる物が丁度発売されまして、諸永・山口両選手等は早くからこのバッテリーの放電量の多さに目を着けておりました。(マニアには当然ですね!)

広阪選手・石川選手両名はリーディマッチド1200SCを使用されています。なんとなく期待できる感じです・・・・?

レース内容はAメイン決勝スタートして直ぐ広阪選手のマシンが後続車に追突されて大きくコースアウト最後尾からの追い上げ状態の序盤の展開です。しかし、やはり世界チャンピオンです。見る間に先行車をバタバタとなぎ倒して?6分を待たずにトップに立ちます。そしてそのままのトップゴール〜〜〜!

レース終了と共に会場は割れんばかりの拍手でAメインドライバー達の健闘を称えました。

この時も九州各地から、かなりの参加者&見学者が訪れてきました。

そのレースに佐賀からエントリーの中山龍三君(当時10歳)も参加しておりましたがAメインに残る事が出来ずにお父さん(中山好さん)の自家用車の中で悔しがって泣いていたのも思い出します。

熊本からは、1999・2000年1/8 GP OFF 全日本優勝の河本篤志選手が彼の当時の師匠、吉村昭彦氏の助言で久留米レース参り?が始まったのも思いだします、山口からは現在プロポメーカーのフタバ社員の森田栄俊選手(ハチイチバギーではAメイン常連)の熱心な参戦もありました。

この頃のメインの車種はaykロードランナーや無限テンペストR&D石原のすごい高額車、京商プラズマ世界選手権仕様等バラエティに富みます。

0.4モジュールと言うのもこの頃のデビューでしょう。特筆事項はやはり世界選手権デビューのアソシ12L&DELTAスーパーフェイサーでしょう。

 

 

 

 私が25歳の秋でした。人生の分岐点?の一つで結婚があります。

子供も翌年無事授かりまして・・・・それと同時にラジコン生活はかなりピンチになります。それは既婚者のこのページ愛読者には良くわかりますね!?

 

オンロード・オフロードラジコンカーもこの頃には総体的に沈静化しまして、何かを模索中といった感じでした。

私もこの頃は模型店を真剣に辞めようと思っていました。それというのもコース併設ショップに連続して2回も泥棒さんにやられたからでした・・・ただでさえ瀕死状態でミニ四駆の売り上げで何とかまわしている状態だったのですがさすがに手を打つ間も無くの2度のご来店?にはなんだか疲れがドッ〜〜〜〜〜ト出る思いだったのです。最後のレースと謳ってお店の在庫の商品の数々を袋に詰め込み(丁度福袋状態)もうやめる一歩手前まで来ていました。

 

しかし、奥さんが生後間もない乳飲み子を抱えながら「私が少しの時間くらいなら開けちゃるよ」と言ってくれまして

当時3号線沿いの空き店舗(6畳くらい)に店を移して細々と営業を再開します・・・

 

1990年、時代は実車のF1ブームの始まりでしたね、私もホンダとセナと中島悟を応援しマンセルの切れた走りとピケのスティディな走りプロストの計算高い走りを応援したものでした。

タミヤ模型よりロードウイザード(F1)の後継モデルとして、フェラーリF189が発売になりました。このキットがよく出来ていまして、良く見ればアソシ12Lの構造を良く研究していた物でしたが、キット標準の状態でこれまた良く走ります。

瞬く間にその年のベストセラーになってしまいます。ほとんどお休み状態だったラジコンサーキットにも復活の狼煙が上がり始めました!・・・・同じようなコンポーネントを使った田宮CカーシリーズもフェラーリF40等のル・マン参加車両やIMSAでの日本車の活躍により一般の方に大受けしだします。

この頃のお客さんに今、私の専属?ペインターの堺君、北野でラジコンカーでゼロヨン専門に楽しむ人達と仲良くなりました。その一人に秋山茂則氏との出会いがありました。

 

 

  前段にも述べましたように、F1ブームといえど店内の商品は閉店を考える位の在庫なので何も商品が在りません。又、地元の卸問屋さんも折からの模型業界の不況で廃業してしまいます。お客様からは商品の注文が当然増えてきました。そこで現金を持ち、遠く福岡まで月に二度のペースの買い付け状態が始まりました・・・・。

また、F101シャーシは模型業界、一筋の光明でしたので当然人気商品なのでした。現金買いで問屋様との付き合いの浅い中村模型店は当時仕入れに行っても扱いは屁の下の存在です。なんだ〜〜〜こいつ等は?と言った感じを受けます。まるで、耐え忍ぶ「おしん」の如く・・・・

完全配給制のF101を2本のみ分けて頂きます。この頃の新商品でティレル020、フェラーリF40、田宮のヒット商品群が巷に出てきます。

 

 商品が回りだし在庫が次第に増えてきます。店内の照明も徐々に増やしてかなりラジコンショップみたいになってきました。・・・・・が店内も手狭になって来た事も否めません。

そこで、毎度おなじみの社長こと私の理解者?様が現われて来て「使っていない事務所を貸しちゃるぞ!」と言ってくれるじゃないですか!!現在の3倍はあろうかの場所です♪

さっそくその話に便乗いたしまして、当時遊びに来てくれていた学生さんに手伝ってもらい急遽、引越し開始です。・・・・・何度目の引越しだろ????

 

 

 今回?の店舗は立派なショーウインドーが有りまして入り口上部にはでっかい看板に「RC Pro Shop 中村模型」の文字が表示されています。入って右側にはお手製のプラモデルの棚が有ります。右側には大きなショ―ケース&パーツの棚!かなりお店になっています。営業時間もPM1〜PM7と中村模型本格再始動になりました。

 サーキットの方も田宮製F1&Cカー達が、かなりの台数走り出します。まさにブームの到来なのでした。1/12で活動していた人達もまざってF1レースを開催すると何十人もエントリーがあります。更に地元の筑後川堤防で楽しんでいた人々も徐々にサーキットに集まりだしました。 この様な流れは全国的なものでした。

 

 

【エンジン再挑戦の編】

この時代平行して1/8GPレーシングの世界もサーパントと言うオランダのメーカー製SPRINTがこのクラスを席巻していました。当時福岡に在るフレンド(RCショップ)さんが九州自動車道路、古賀インター傍にある福岡インターナショナルスピードウェイ(前段にも少々解説)を経営されておりました。

派手でカッコイイTV・CMを地方の深夜番組帯に流すなど孤軍奮闘しておりました。もともとハチイチも嫌いな方じゃないので福岡方面に出掛ける時は時々寄ってましたが、中古車がたまたま在ったのが運の尽き即購入いたしまして1/8クラスのレース参戦となります。

初回は、お遊びで昔使用していたファントム20EXPをオーバーホールしてOS-FSR21で何処まで戦えるかとりあえず出場してみます。

エンジンは国産・ミッションは当然シングルもちろんサスペンションなんて気の利いたものは付いておりません。さらに時代遅れのチェーン駆動、四駆システムです。そのようなクラッシックカーですが、信頼性とタイヤの進化とまだ錆びてない私のお手手でBメイン優勝をしてしまったのです???

これには、調子に乗ってしまいます・・・・(これは、独立サスと2速ミッションと最新のエンジンが有れば軽くAメイン3位内が狙えるナ)家でスプリントを整備しながら一人ニヤッとします。

 

さて、エンジンレース復帰第2戦目今回はスプリントで参戦です。当時サーキットの管理人の久保選手に前後タイヤを準備していただきました。エンジン始動・・・ここまでは問題なし!コースインしますとアレッ?エンジンが吹けずにSTOP&GOの繰り返し???プラグだろうかキャブだろうか?周囲の方が集まってああでもないこうでもないといじります。一人の方が「燃料何使ってるの?」「私はK&B・・・・・」問題発見!燃料をトルネードに変更すると何と快調になってしまいました。オイルのグレードが最新のエンジンに不適合だったのでした。

レース参戦は何でも勉強になります。

 

 2速の調整を済ませ最新のサス付きマシンに慣れるようにコースインします。フラットパン車とは比べられないくらいにスムーズに走ってしまいます。ニヤリ(敵は久保選手と山口選手と中田選手だ!)思わず嬉しくなります。

 予選1ラウンド目に調子に乗ってコーナーを攻めていましたらインコースのタイヤフェンスにハードヒットこの一発でサーパントの修理代が高いのを体験することが出来ました。そんなこんなでまたしてもBメイン・・・・こんなはずじゃ、なかったのに(悲。

決勝レースもなめていたのが運のつき2速が壊れて一速のみしか使えません。キャブもスロー側の調整ビスが無くなり全開のまま閉じらなくなってしまいやっとの完走・・・・3位

 レースは舐めてかかるといけません教訓ですね?

この時の参戦費がエントリー代+消耗品費+修理代で3万円を軽くオーバー致しまして、その後は修理を済ませた後スプリントは衝動的に売ってしまいました。

 

 

 この時に大変お世話になりましたフレンドの古田社長様が最新式のAMB計測器の導入をされまして以前からバギーレース時に計測用にされておられました北越電研製オートラップカウンター(L DUCK赤外線式)を安価でゆずって頂ける事に成りまして久留米のEPレーシング界が新たな時代の突入となります。

 

【近代型レース開催の編】

 

 さあ、レースといえばオートラップカウントシステムでしょう!!

タイムも100分の1秒まで計測可能です。今までの人が押したストップウオッチとは違い人情が入る余地がありません・・・!並んでゴールに入って来てもポンダー搭載方法で勝ち負けがきちんと決まってしまう?シビアなレースが始まります。今回のアイテムも実車F1レースと共にレース内容をヒートアップさせる逸材です。

 

 しかし、このシステムが大変でポンダーの管理はきちんとしておかないといけないし、充電状態が把握できません。物が古いだけにポンダー自体がお亡くなりになる物が現れてきます・・・・製造元に連絡を取り取扱説明書を買ったりポンダーを何個も買い足す羽目になり苦労も耐えませんでした・・・が、レースの参加者には大受けします。キチンと自分のタイムが出る事は、各自がタイムを見に来て自分のレースの参考にしています。使い慣れ始めるとやっぱりこんな便利なものは他にはありませんでした。

 

 

 

 

 この頃、田宮模型が新たな試みを始めます。

オフロード時代末期に発売したマンタレイのシャーシをベースにサスアーム類を短くしてトレッドを乗用車サイズに合わせた電動ツーリングカーと言うのを提案してきます。

 

 実車の世界では日産自動車が世間のバブルの勢いで?シーマ現象を始めにスポーツカーでも新型車の280馬力・フェアレディZ&スカイラインGT−Rを証券バブル弾けた後ヒットさせました。ニュースでは株価が下がったと騒いでいましたがラジコンカーの世界でも、これらの1/10モデルであるEPツーリングカーのスカイラインGT−Rが一気にブレイクします。スケール感の高いこのモデルは実車のGT−R同様に4WDシステムなので簡単なきっかけで綺麗なドリフト走行が決まります。これには実車のマニアもはまってしまったようです。

 

 

 F1シリーズに加えツーリングカーがブームを築いていきます。

サードパーティ(RCパーツメーカーたとえばクロスとか・・・)が出す商品すべてのチューンナップ?パーツもヒットします。

ラジコンカー界は空前のブームになってしまいました。これらに続き、田宮模型はミニ四駆も第三次ブームです。「いけっ!マグナム」とばかりに、今度は社会問題になる位にすごいブームになってしまいます。

大人はラジコンカー・子供はミニ四駆、世の中は不況の始まりですが模型界のプラモデル&ラジコン屋さんは空前の好景気に沸きます。

 

 

この頃のレースは各地でF1クラスがメインでした。我々も次第に増えていく常連さんと共に

各地への遠征再開を始めます。

1/12全盛時代から交友のあった佐賀のモデラーズ松永(旧名ラジコンショップ佐賀)へ毎月のように参戦しておりました。ここのサーキットも現在3代目ですが初代サーキット時代にJMRCA1/12新潟大会で貞富準治選手の活躍や2代目サーキット時代の中山龍三選手の全国制覇など輝かしい歴史も有ります。現在は百崎選手を中心にプロペインター百武選手など個性の強い選手が現在も活躍中です。

 F1ブームの真っ只中チームヨコモの広坂選手と萱野選手がこの佐賀のサーキットへ訪れた事があります。当時ヨコモはY10という4独サスカー(2駆)をベースにフェラーリ189のボディを搭載したF1キットを販売してました。この販売促進を兼ねてのサーキット訪問でした。

当時はスポンジタイヤのみのレースでしたが、Y10はヨコモ独自の4独サスカーだったのでセッティングが非常に困難だった模様です。予選中は広坂選手もかなりてこずって操縦していたようですが、決勝レースになりますと、さすが広坂パパさん、劇的な走りを見せてしまいます。

おかげで中山選手・諸永選手と3つ巴の序盤戦になりました・・・・が、さすが世界チャンピオンですね、終わってみれば広坂選手の勝利・・・やっぱりな〜〜〜と思いながらも気持ちはいいもの見せてもらいました!って感じです。

 

 

 

 

中村模型店もお茶濁し?で再開したはずでしたが、順調に売り上げを伸ばし手狭になったショップを大幅に手直しすることが出来ました。奥の控え室&商品ストック置き場の増設大型のエアコンそれから照明の増設等ですっかりリニュアール出来ました。

 

 

 この頃には(株)ヨコモさんも田宮のツーリングカーに便乗するようにスーパードッグファイターをベースにYR−4と言うシャーシを発売されました。皆さんご存知のようにベルト駆動のこのシャーシは駆動系の軽さを武器にあっという間にファンのハートを掴んでしまいます。

 

 定例レースも遊びの様なツーリングカークラスから次第にコンペティブな世界になってきます。

そこでヨコモも販売促進の一環として地方巡業?が始まりました。九州にチームヨコモ再上陸です。

 

 ヨコモの皆さんは広坂親子を筆頭に鈴木浩志さん加藤利明さん足立伸之介さん山鼻昌弘さん(現RCW)の豪華メンバーです。ところが土曜日到着当日、久留米は雨です・・・私はサーキットやショップの方でチームヨコモの皆さんを、お待ちしておりましたが一向にお見えになる気配がありません・・・

お昼近くにようやくショップの方にお見えになられました所、雨が降っていたもので阿蘇山を見に行っていたということでした。そうですねせっかく九州までお見えになったのですから、そう言うのもありですね。

天候も翌日曜は晴れとなっています。コースを下見に行っても走らせる事はやはり無理です。しかしチームヨコモが来るという事で遠くは広島・山口・鹿児島・宮崎・各方面から続々と久留米サーキットへ集まりだしました。

朝早く私は起きたつもりでしたが既にコース駐車場は、かなりの台数が在ります。遠方からの遠征組みは車中泊も数人居られると言う事でした。

昔から、RCレースは、こうでないと?盛り上がりませんよね!地元に負けじとチームヨコモも早々に会場入りです。

ところが、路面が昨日の雨で完全ウエットです。皆さんの協力でコースの水分除去作業から開始です。

計測機器はヨコモさんが持参してくれたAMB(システム10)です。確か計測プログラムも独自のものでかっこいい感じの出力だったと思います。

計測アンテナを路面に設置しようとしたところ、アンテナ線を埋める溝を用意していなかったのでガムテープで路面に張ろうとバーナーで路面を焼いたり

大変な作業を龍三パパや山鼻さんが手伝ってくれた事を記憶しています。

結果は良く覚えていません・・・・・情報が有りましたらお願いします。

画像は、Aメイン決勝時の物と思います。真ん中黄色のジャンパーは、もちろん正美さんで右横がモロちゃん、左横は佐賀の百武さんです。

毎回ですがメーカー系チームの方を向い入れてのイベントは忙しすぎて頭の中が真っ白になります・・・・本当です。

特に遠方からの参加者が大勢いますと気を使いまくりです(^^;) \(――;)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

〜〜再びGPに熱くなる編〜〜

 

河川敷でラジコンを楽しむ人達の中には、より刺激のあるエンジンモデルに触手を伸ばす方達もいます。

丁度この頃、京商から1/10EPオフロードモデルの足回りを利用しOS10FPエンジン(リコイル付)を搭載した

エンジンカーモデル「GP10」シリーズが発売になりました。

ランページ10(GPオフロードモデル)などの布石はあったのですがR32GTRのボディを乗せたこのGP10は実車の人気にも

引きずられる様にエンジン搭載モデルなのに手軽に遊べるモデルで異常なブームになります。

 

当時のニッカド電池の性能は1700mAから2000mAへ容量移行するかと言う時期でした。

昔から電動で競技を楽しむ人達には、毎回?ですが、この電池の登場でマッチドで無くても楽に8分走るね♪

と言う感じでしたが、一般の方は、それでもそれら電池のランタイムは不満なもので

EPレースが大好きな人以外はどんどんGPモデルに手を出します。

京商もこれらのブームを更に盛り上げる為に全国的イベントを立ち上げます。

大人?の為のGP・社会人全国大会です。

今でも車種(ピュアテン)に替わって開催されていますね…

私達も全国大会イベント大好きなので当然参加です。

 

京商社会人大会・第一回九州地区予選は福岡のEP&GP混走可能なプラスワンと言う名の九州初のインドアサーキットでした。

中村模型(チーム諸永)は急遽2チーム用意し

クロス・京商オプションなどの大会協賛メーカーのスペシャルな金属製強化パーツを

盛りだくさんに考えられるくらい組み込み、当事揃える事が可能な限りのタイヤセットを準備し、予選に備えましたが

インドアでの2サイクル廃油でベタベタな路面へのラバータイヤ使用と言う特殊な条件に見合うタイヤ&インナー並びにセッティングを

見い出す事無く・・・・・・結果は2チームとも予選落ち敗退してしまいます。

 

ファーストチームは私と「モロちゃん」&「山口君」と言うスティックプロポ使いの面々でした。

セカンドチームは「せいちゃん」「太田君」「深町君」のホイラープロポ使いのメンバーで

各メンバー的には全国大会経験者なのでドライバー的には役不足は無いはずでした。

しかし、結果としてはオンロードレーシングのノウハウよりもエンジンバギー使いのラバータイヤ&サスセット等の

ノウハウの方が重要だった様子で、本選出場決定の上位3チームのメンバーは、

いずれも当事1/8エンジンバギーをメインで楽しんで全国大会出場経験ある人達ばかりだったのです・・・・

 

これは、かなり私個人的には悔しかった思いがあります。

このままでは終わりません…

この大会は翌年も開催決定と言う事で、電動関連の選手権が一段落する来年も参戦を決意しました。

 

続いて社会人大会編第2章

 

屈辱の第1回大会…リメンバー昨年???を合言葉に・・・・

京商サンから赤紙(エントリー用紙)が、昨年参加の各代表者へ届きます。

この年、京商からGP10シリーズ後継のスーパーテンシリーズが発売になりました。

オートモデル設計で今風のユニット構成のかなり気合の入ったニューマシンです。見た目もかなり素敵です。

熟成のGP10を使用するか、新進気鋭?のスーパーテンを使用するのか・・・・チームの諸永は悩みます…

昨年あれだけ資金を投入したマシンをポイ出来る筈も無く参加メンバーを増やして

合計3チームで参戦を決定いたします。

信頼の旧GP10で2チーム、新型スーパーテンで1チームでサポート隊も含み3チーム12名。

 

この年の会場は初めの項でも触れております「FISCO」こと、福岡の古賀インター近くにある当時国内最大級の

ラジコンサーキットです。

このサーキットは私もチーム員も、かなりEP&GPで走りこみの経験が豊富なコースです。

本戦前には各メンバーでテスト走行頻度も回数を重ねてかなり良い感じです。

 

皆で翌日雑談中に当日参加出来るのを知り、ついでに?キット素組みでスーパーテンチームを更にもう1チーム?

「エンジンはOSやけん慣らしは当日でもかまわんちゃない?」と言う「おまけ」チームを急遽立ち上げて

計4チーム15名サポート2名冷やかし3名の大部隊になりました。

 

当日朝、久留米サーキットへ全員集合して一路FISCOを目指します。

駐車場に着くと「との」レーシングの面々や、福岡RCのエンバギ組が居ます。

朝から昨夜組みあがった、にわかチームはエンジンのリンケージ調整(笑)です。

今回は万全のはずの?他の3チームはコース下見や雑談に夢中です。

さて予選開始、ファーストチームは無難に朝練習でぶつけて・・・・・三輪走行強制トラブル?発生

せいちゃん率いるセカンドチームは何だかエンジン不調でキャブ調整に苦戦中

サードチームは白井氏の勢いで無難に予選を戦います。何事も勢いは大切です。

第四のチーム車は取り敢えず燃調濃い目の慣らし・・・・はしてません・・・・既に全開走行です。ある意味すごいよ!!OSエンジンです。

 

ファーストチームはモロちゃんが居ます。

耐久レースなのでドライバー交代は必須です。たぶん給油毎に替わらないといけなかったはずです。

モロちゃんのドライビングスタイルは早めのスロットルONでパワーコントロールタイプだったので燃調濃いめです。

セカンドドライバーの山口君はスムーズなドライビングスタイルでモロちゃんの燃調だとカブリ気味です。

私のドライビングも山口君タイプでエンジンカーレースでは無理をしない完走タイプです。

3人のスタイルを考え燃費にも良い山口スタイルでスタートしましたが、やはりキーポイントは?モロちゃんでした。

彼はスプリントスタイルです。

エンジンヒートさせてしまい給油中にエンジンストップ・・・・再始動に大幅に時間を取り大きく後退・・・・

サードチーム&第四のチームは一応濃い目の燃調でスタートして慣らしを兼ねてます。

快調に進んでいるのはサードチームと第四のチームだけです。

決勝レースには2チーム残りまして、チーム全車進出は叶いませんでしたが、これでチーム全体が2車に集中できます。

 

車体がスーパー10だけに、各チームにトラブルが発生するのは時間の問題でした。

いつの間にか冷やかし半分だったサードチームは上位を狙えるポジションに上がっています。

予算がなかった為に装着できなかった2速ミッション。

エンジンは在庫がなかった為に赤結晶塗装のCV

もちろん、ベアリングもキット標準のアクスルのみです。

でも、今現在優勝を狙えそうなのはその車です。

レースって不思議ですね。

あり合せの新造第四チーム車はピークまで引っ張るエンジン音は悲鳴のような音を上げてます。

エンジンブレーキもシングルミッションなので実車の様な良い感じでスロットルオフで掛かります。

しかし優勝を狙っている他の強豪達は、やはり強かったです。

結果サードチーム3位ゴールで社会人大会出場権はありません。(2位までが出場権有り)

帰って車を駐車している久留米サーキットで反省会です。

 

このままじゃ、終われません。もう意地です。

翌年はGPレーシングカーブームを九州地区で大ブレイクさせた東佐賀サーキットでの開催が決まりました。

 

京商社会人大会参戦・最終章

東佐賀サーキット・・・・今ではこのコース自体は童遊館さんとして残っているのですが

初代経営者は通称「三田川のおばちゃん」こと、三田川模型さんでした。

翌年も京商から令状がルールブックと共に各チームリーダーに届きます。

今回は全然近場です。

練習&セット出しには事困りません。

今回用意周到です。4チーム構成となりました。

質・量共に豪華絢爛です。

1stチーム諸永、北島、田村とEP/GPのスペシャリストで揃えたチームです。

2stチーム深町、大田、中村誠

3stチーム中村佳、古賀、橋本

4stチーム白井、中村和、

 

 

 

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