
人間の値打ちは、世の中に尽くすことが基本ー幼少のころから正二郎はそのことに気づいていた。
「人間は世の中のために働くこと。それが一番大切」という叔父からの教えは、正二郎の人間形成に大きな影響を与えた。
石橋正二郎。明治二十二年二月、久留米市本町一丁目に初代石橋徳次郎、マツの二男として生まれる。同二十八年に荘島小学校に入学、三歳年上の兄・重太郎(後に二代目徳次郎に改名)はスポーツマンで活発であったが、正二郎は内向的、病弱で学校も休みがちだったという。しかし成績はずば抜けて良かった。当時の小学校は四年制、終了と同時に篠山町の久留米高等小学校へ。さらに同校三年生から久留米商業学校へ。
このころ、商業学校は全国でも少なく、久留米商業には九州各地から二百人以上の受験生が押しかけた。
七十人ほどの合格者はほとんど年長者。正二郎は最年少で合格したのだ。”年長者の同級生”、正二郎はこの中で級長を続けていくほど、信頼もされていた。上級学校への進学に燃えるのも当然であったろう。が、父の反対で進学を断念し、明治三十九年、兄と共に父の経営する仕立屋「志まや」を継ぐ。
十七歳の時である。あきらめが落胆になり、どうかすると後ろ向きになりがちな年代に、「全国的に発展するような事業で世のためになること」と理想を掲げる正二郎。前を向くことで進む。という生き方はこの時に既に始まっている。
足袋を製造している間に、サイズに関係なく価格を同じにして販売する均一価格を実践。さらに画期的な試みで着実に業績を伸ばす。それがゴム底をつけた地下足袋、ズック靴の製造販売である。外国の技師を招き、製品の研究開発を進め、海外への輸出も果たした。